時は流れている、
緩やかではあっても、確実に。
そして過ぎし時は二度と還ることはない。
まだまだ小娘の私ですが、ある時を境に時の流れをより早く感じるようになりました。
今年は季節を行ったり来たりで、残暑の暑さと凍えるような寒さの狭間で「秋らしさ」をしっかりと感じ取る余裕もなく気づけば木の葉が吹き荒れているようです。
紅葉や銀杏も勘違いして早くに朱く染まり、今年は美しい紅葉が見られる時期が例年より少ないみたいですね。
四季折々の景色が好きで、20代前半はその季節を味わいによく出かけたものですが、
今は隠居したかのように引きこもっています。
つまり何が言いたいかっていうと、
誰か私を紅葉観に連れてって…!!!!←前置きが長い
”陶片-時を超えて-”
時を超えて漂流した記憶の欠片達。
こちら、自らコレクションを持参してアートに取り入れて!というスタイルの恒例のお客様の作品♪
もうお判りかもしれませんがIちゃんです♪笑
Iちゃんはとても繊細で奥行きのある方なのですが、
「これが好き」というものに対する想いの入れ方が半端ない。
彼女の「好き」を聞いていると、その魅力に引っ張られて私まで「好き」になる。
そもそも「好き」の感覚がどこか似ているんでしょうね、
そしてそこにのめり込む想いの入れ方なんかも。
見ての通り、これは和食器などの陶器が海へ漂流してきたもの。
彼女はその魅力に引き込まれ、近場の海では飽き足らずグアムにまで旅行へ行ってしまうほどののめり込みっぷり。
そんなIちゃんが大好き♡
「見る人が見れば、これはいつの時代のどんな焼き方で作られたものなのかが分かるんだそうですよ」
なんという素敵なお話。たまらないです。
美しく愛しい日本の精神は、案外近くに転がっているものなのだな。
Iちゃんが一緒に集めたシーグラスも参考に。
マットで仕上げた上からさらに削りを入れて擦り切れたようなイメージで制作しています。
話は逸れますが(←ほんといつもすみません)
昔小学生の頃、シーグラスのお話を国語の教科書で見かけました。
タイトルも内容も覚えていないけれど、
海を渡って砂に揉まれ角を落とし擦り削られたシーグラスのお話。
教科書に載っていた挿絵はイラストのシーグラスだったけれど、
なんだか胸が高鳴って、本物は一体どれほど綺麗なんだろうと目をキラキラさせながらその物語を読んでいた記憶があります。
幼いながらに乙女心をくすぐられたな。
だけどその時、ドキドキと共に不思議なことに、ちょっぴり怖いなとも思ったんです。
彼女たちは何を見てきたんだろうって。
私が知らないどこか遠くで放られたガラスは、海を渡って、砂浜にたどり着き誰かの手で拾い上げられるその瞬間まで
どんな想いで海を彷徨っていたんだろうって。
悲しいことも、たくさん見てきたのかなって。
だからこそ擦り削られて透明感がなくっても、輝いていなくても光っていなくても、心惹かれるのかなって。
そんな切ない記憶と共に、私の胸に蘇りました。
どうしてそう思ったのかは今でも謎。
小学生のくせに小生意気に。笑
そしてこの話に得にオチはない。←おい
いつの時代に誰がどんな想いで彼らを手にし、そして手放したのだろう。
私が今大切に持っているナニカも、いつか手放し誰かの手へ渡るのかな。
人は生き喜びや悲しみの中で人生を全うし、魂を燃やしてこの世を去る。
彼らのように時が経って綺麗なままの姿でこの世界を渡り歩けたら。
そんな壮大な妄想(笑)を秘めた、大好きな作品。
美しいな。
人の記憶って本当に曖昧じゃないですか。
いくらでも再構築できるし消したい記憶は時が流れれば消えてくれるし、
自分の都合のいいように書き換えることだって出来る人もいる。
記憶を自分を守るための盾として操作できてしまう。
朽ちることのない記憶って唯一「誰かに愛された記憶」なんじゃないかな。
もしくは「誰かを愛した記憶」。
そういうものって、心以外のものにも宿るでしょう。
静物にも無機質なものにも…身近なものに。
粗末にしちゃいけませんね、あれもこれも隣にいる誰かも。